顔施(がんせ)言辞施(げんじせ)
2008年 10月 26日
先日、在家仏教会の講演会を拝聴しました。
比叡山延暦寺の中臈(ちゅうろう)小林隆彰師です。
「奪いからお返しへ」という演題でした。
平たく言えば、人間は奪いの精神構造でできている。
動植物の命を奪い、それも平気で。
無一物で生まれてきて、与えられること、頂くことばかりで生きているのだから、
お返しする心を養うこと。仏教のきわまることは「返す」ことである。という。
私は「奪う」「返す」という言葉がどうも適切ではないように思うのですが、
先生の言われることは良くわかります。
日々、柔和な顔で。優しい言葉で。愛に満ちた心遣いで。
たくさんのお返しをしなければと思いました。
で、昨晩、友達と電話で話をしていて、相手の傲慢な態度にムッカー、
もう二度とこの人とは話をしない。と内心決めました。
それは、初めてのことでなくて、ずっと続いていているのです。
もう、辛抱の限界というところです。
ことなく過ごすためには、離れておくことだと思っていますが。
相手によって、自分を知るといいますから
自分を省みることが、どうもありそうですね。
比叡山延暦寺の中臈(ちゅうろう)小林隆彰師です。
「奪いからお返しへ」という演題でした。
平たく言えば、人間は奪いの精神構造でできている。
動植物の命を奪い、それも平気で。
無一物で生まれてきて、与えられること、頂くことばかりで生きているのだから、
お返しする心を養うこと。仏教のきわまることは「返す」ことである。という。
私は「奪う」「返す」という言葉がどうも適切ではないように思うのですが、
先生の言われることは良くわかります。
日々、柔和な顔で。優しい言葉で。愛に満ちた心遣いで。
たくさんのお返しをしなければと思いました。
で、昨晩、友達と電話で話をしていて、相手の傲慢な態度にムッカー、
もう二度とこの人とは話をしない。と内心決めました。
それは、初めてのことでなくて、ずっと続いていているのです。
もう、辛抱の限界というところです。
ことなく過ごすためには、離れておくことだと思っていますが。
相手によって、自分を知るといいますから
自分を省みることが、どうもありそうですね。
by hekiku
| 2008-10-26 09:15